『メメント・モリ』というのは、ラテン語で「死を想え」という意味です。中世ヨーロッパでペストが蔓延し、死というものが実感としてすぐ側にいたときに盛んに言われた宗教用語です。ペストの流行で2000万人から3000万人の人がヨーロッパでは亡くなったと推定されているそうですから、本当にいつ死んでもおかしくない状況だったのだと思います。
このような状況は特殊ですが、“死”というものはいつも私たちの側にいます。いつなんどき、“死”に至るかは誰にもわかりません。ですから、私たちはいつ死んでしまってもおかしくないのです。つまり、ペストが大流行した時代に生きた人の死と、現代に生きる私たちの死との間にはなんの違いもないのです。
死というのは悲しいものですが、故人から受ける“生の授業”でもあると思います。死に直面したとき、自分の“生”というものを強烈に感じませんか? 「なんで私は生きているのだろう?」「生きるとはなんなのだろう?」「死ぬってどういうこと?」
今回は“死”について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
死というものは、生きとし生けるものすべてに訪れるものです。始まりがあれば必ず終わりがあり、避けることができません。でも、終わりとは言われても、そもそも“生の終わり”とはなんなのか? それがわからないから、死というものを人間は恐れるのかもしれません。
しかし、人間というのは死を実感することによって、生のありがたみや幸福を実感すると思います。人の死に触れたとき、「ああ、私は生きているんだ」という実感が生まれるのです。
死というのは不吉なことと思われていますから、なかなか話題に挙がることがありません。日本のテレビや新聞でも、遺体が映し出されることはまずありません。また、現代の日本は戦争もなく、衛生面もすばらしいですし、医療技術も発達していますから、いつの間にか死が遠い存在として感じられ、あたかも死なんてないかのように錯覚してしまいがちです。
6年前の3月11日。東日本大震災で信じられない数の人がお亡くなりになられました。新聞、テレビ、雑誌、あらゆるメディアで信じられないような光景が伝えられ、死という現実を全世界の人が目の当たりにしました。
あなたはあの震災で、何を思ったでしょうか。そのひとつひとつがかけがえのないものであり、一生忘れてはいけないこと。つまり、生の授業だと思うのです。
死について考えることがなぜ大切なのかというと、生きることに対するエネルギーが生まれるからです。もちろん、死について考えたところで答えなんてでません。死を経験することもできませんし、経験したことももちろんありませんから当然です。
ですから、答えなんて出す必要はなくて、ただ、死について考えてみればいいのです。ひとりで考えるのもいいでしょうし、友人と語り合うのもいいでしょう。そうして、死について思いを巡らすだけで、「がんばって生きなければ」という生に対する前向きなエネルギーが生まれるのです。
死というものは、必ずしも恐怖の対象であったり、忌み嫌うものではありません。死というものは、新たな生への旅立ちであり、この世での生のお役目を終えた結果でもあります。
死を想うことで、生が光り輝きます。
死を想うことで、人間本来の人生というものを歩めるのです。
最後に、本を一冊ご紹介したいと思います。著名な写真家である藤原新也さん
の『メメント・モリ』(情報センター出版局刊 1983年発行)をご存知で
しょうか。1983年2月に発売され、27刷を数えるロングセラーとなって
います。2008年には新装版が発売されています。
生と死を連想させるすばらしい写真とともに、人生とはなんなのか? ということを藤原さんらしい目線で切り取った言葉が書かれています。
この本の中から、一文引用させていただきたいと思います。
「死のとき、
闇にさまようか
光に満ちるか
心がそれを選びとる。」
――『メメント・モリ』 2008年11月5日発行初版本より
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