青森の神様 木村藤子の公式ブログ 日々の暮らしから得る気づき

透視人生30年以上のキャリアで培ってきた、誰しもが幸福になる生き方、考え方をお伝えします。

自分の幸せは人の幸せと背中合わせ

人は人と人が関わることによって、この世に生を受けます。全く別の家庭に生まれ育ったふたりが出会い、恋をして、新たな家庭を作ります。そこから生まれた新たな命もいずれは巣立ち、人生の伴侶を見つけ、自分の家庭を築いていきます。親から子へ、子から孫へ。そしてまた、孫からその子へと、生命のバトンタッチは当たり前のごとく続いていきます。

 

このように私たち人間は、人類が誕生してからずっと、出会いと誕生を繰り返してきました。人類の歴史とは、まさに家族の歴史でもあるといえるのではないでしょうか。

 

私たちの住む社会は、人と人が織りなす共同体です。そこにはさまざまな集団が存在しますが、なかでも最小の単位であり、もっとも強いつながりを見せるのが、家族という集団です。みなさんも自分のことを考えてみてください。この社会で生活していれば、人はいろいろなところに関わりができるものです。でも、最終的に帰属意識を抱くのは一体どこでしょうか? それは国でも会社でもなく、自分の帰る場所である〝家族〟なのではないでしょうか。

 

しかし、家族も最初から強いつながりを持っているわけではありません。違う家庭で育った男女が基本になりますので、そこには習慣の差や葛藤があって当然です。それをいかに強固なつながりとし、結束させていくのがコミュニケーションです。つまり、お互いがお互いを理解しようとする、思いやりの積み重ねが、結果として現れてくるのではないでしょうか。

 

また、個が集まった最小単位の集団が家族であり、その家族がつどって構成されるのが、地域のコミュニティーであったり、学校社会であったりします。大人になるにつれてその社会は幅を広げていくものですが、それはいわば、世界が広がっていっていることの現れです。

 

もちろん、世界が広がれば広がるほど、自分の属する社会、特に家族とは別系統の考えを持つ人々や、異なる生活習慣の人々と出会うことになります。わかりやすいところでいえば、日本と海外では言葉も習慣も違いますし、もっと狭く見てみたとしても、日本国内でさえ、方言というものが存在するのです。

 

このように多様に広がる社会にあっても、そこいる人々はすべてひとりひとりが違う価値観を持つ別人格です。初めから10年来の友人のように接することができる人間もいれば、気の合わない人間がいることもあるでしょう。それぞれの関係上では、差が出たり、軋轢が生まれるのは当たり前のことです。

 

私たち人間は、透視をするように相手の心を見て気持ちを知ることはできません。しかし、時間をかけてコミュニケーションをとり、相手を思いやる気持ちを持ってさえいれば、私たちは相手が何を考えているのか、どう感じているのかを想像することができます。

 

他人と関わりを持っていくうえでは、プラスの感情ばかりではありません。そこには怒りや妬みなどのネガティブな感情も含めて、さまざまな思いが入り乱れています。しかし、それを感情のおもむくままに野放しにしていては、社会を維持していくことはできません。

 

現代は人と人の関係性が稀薄になり、個人主義になりすぎていると指摘されますが、みなさんはどのようにお考えでしょうか? 「人の気持ちがわからない」ですとか、「自分勝手な人が増えた」という声をよく耳にしますが、残念ながらこれは事実なのであると、私は考えています。

 

現代社会を潤す便利な電化製品の発展に伴い、今を生きる子どもや大人がさまざまな面で影響を受け、心の内側まで無機質に変化させていくことは致し方のないことかもしれません。しかし、そんな時代だからこそ、情緒などを大切にし、本来、人が持っている温かい心を失うことのないよう、未来の子どもたちへと伝えていく責任があるのだと思います。

 

では、なぜそのような一元的なものの見方が蔓延してしまっているのか。私たちはその原因を考えなければなりません。私は、子どもが成長の過程で接する親や家族の責任が重大であると考えています。自分の家がよければ、それですべて良しとする生き方は、「他人のことは関係ない」という思いやりに欠けた人間を育てることになり、子どもの将来に重大な影響を与えます。

 

子は親の行動を見て育つわけですから、自分の家のことばかり気にかける親に育てられた人間は、自ずと人のことを気にしない人間へと育っていきます。みなさんも、「この親にして、この子あり」と感じた経験はないでしょうか?そのような家庭環境の中で生まれ育っては、人の立場になってものを考えることなど、望むべくもありません。

 

やがては自立し、違う環境へ巣立っていくわけですが、その先には様々な障壁が予想されます。人との関係を構築していく上で、自分の考えを矯正しながら生きていかなければならないというハンデを背負ってしまうのです。

 

私たち人間は、お互いの違いを認め合うことの大切さを知っていたとしても、自分とは異なる価値観を受け入れるということがなかなかできません。人はそれまでに生きてきた経験から、大なり小なり自分の価値観に自信を持っています。その自信を曲げて他人の価値観を受け入れるということは、自分の考えが絶対的な正しさの元にあるということを自ら放棄することにつながりますので、難しいのも仕方がありません。

 

では、人が人を認めるためにはどのようにすればよいのでしょうか? 

 

それは、〝正しい知識〟と〝正しい常識〟を手に入れることが何よりも必要になってきます。正しい知識と常識を手に入れていく過程で、人は己の器の小ささを知ることができます。人の生きる世界には、何百億、何千億あるかわからないほど、たくさんの知識が存在します。その膨大な知識を、人間の一生涯ですべて得ることなどは、到底、不可能なのです。

 

しかし、この〝自分が知っているものは世界の一部でしかない〟ということを出発点に考えることができれば、物事は自分の見ているものがすべてではないという現実に気がつくことができます。それが結果として、他者の価値観を受け入れることにつながっていくのです。

 

それに、思いやりの語源は、「思いを遣る」だと言います。つまり、〝愛〟を〝送り届ける〟行為です。みなさんもご存知のように、知識や常識のない愛ほど、やっかいなものはありません。それはただの自己満足でしかないのです。違いを受け入れる、言い替えれば、〝相手を愛する〟ことによって、私たちは初めて〝本当の会話〟、〝心の交流〟を成立させることができるのです。

 

人はみな、誰かに受け入れてもらい、愛されたいと願っています。しかし、ただ何もせずに「私を受け入れて! 」と叫ぶだけでは、誰も受け入れてくれません。

 

自分とは違う環境で育ったというバックボーンを持ち、別の価値観や感情を抱く他人に己のことを理解してもらい、愛してもらいたいのであれば、まずは私たち自身がその人を理解しようとし、愛さなくてはなりません。

 

人に求めるばかりの愛ほど空虚なものはなく、誰も振り向いてくれはしないのです。つまり、自分の幸せは、常にほかの誰かの幸せと背中合わせで存在しているものであり、人に愛を与えることで、その愛は自分へと返ってくるのです。

  

 

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