青森の神様 木村藤子の公式ブログ 日々の暮らしから得る気づき

透視人生30年以上のキャリアで培ってきた、誰しもが幸福になる生き方、考え方をお伝えします。

弱い自分と向き合う

 拝殿で相談を受けていますと、私が伝える神の言葉を聞き、心から理解して納得する方と、烈火のごとく「自分は間違っていない!」と怒り出してしまう方がいます。

 

 前者は“自分の欠点を受け入れ、納得することができるため、欠点を直すことで気づきの道を歩くこと”ができます。かたや後者は、“自分の欠点を受け入れることができないために、これまでの生き方を変えること”ができず、現状のままでは未来を変えることができません。

 

 この両者の間には、どんな違いがあるのでしょうか。

 

 前者は、人からの指摘を素直に受け入れ、感謝することができます。なぜなら、自分のことを客観的に見ることができているので、他人から指摘されたことは、直すことで自分のとってプラスになることが理解できているのです。

 

 

 後者は、自分の行いが悪行だということすら分からないため、人から指摘されても受け入れることができません。知識がないために、人から指摘されたことを反省して直すということが、自分にとってプラスになるのだということを知らないのです。

 

 また、“今”だけ、“自分だけ”を見てしまっているので、過去の自分を反省することもできず、過去から現在、そして未来にはどういった影響を及ぼすのだろうと考えて物事を判断することもしないので、ミスを犯し、そのミスがまた別のミスを呼びといったように、いつまでも負の連鎖を起こしていきます。

 

 この差は、本人の心の成熟度によるものだと思います。

 

 心は自分で成長しようと積極的に人生を生きていくことによっても成熟しますが、その土台は親の教育によるところが大きいと思います。

 

 幼少期の親の教育によって人間性の土台となるところができあがるので、この時期にどんな教育環境にいたかというのは、その後の人生に影響を与えるのです。

 

 でも、どんなに教育環境のよくない家庭で育ったとしても、能動的に知識を得ていくことで、自分自身で成長することはできます。親ばかり恨み、自らの非には気づけないようでは、いらぬプライドを守っているのと同じです。

 

 年齢的にはいい大人なのに、精神が幼い人はたくさんいますし、その逆の人もたくさんいます。心を成熟させるのに年齢は関係ありません。そもそも、人間というのは輪廻転生の中で永遠ともいえる時をくり返し生きていますから、その大きな流れの中で見れば、現世というのはまだまだ道半ばであって、この先、果てしない時の中で常に心を成長させていかなければいけないのです。

 

 ですから、幼少期に親からいい教育(いい学校に行くとか、お金に不自由しないとか、上辺のことではなく精神のこと)を受けることができなかったからといって、心を成熟させることに対して無関心でいてはいけませんし、「歳だから……」と諦めてしまう必要もないのです。

 

 気づけない人というのは、表面的には怒ったり、プライドの高さを見せたり、露骨に嫌な言動をとったりしますから、はたから見ればおつき合いしたくない人と思うかもしれませんが、心の弱さと知識不足ゆえの“威嚇”なのです。その弱さを隠すために、上辺で怒って見せるのではないでしょうか。また、その自分の弱さに対峙することを拒んでいるのだと思います。

 

 しかし、これでは二重の苦しみになってしまいます。精神では弱い自分をひた隠しにして、その弱い自分を助けてあげよう、直してみようとしません。外の世界では人間関係で失敗したり、負の連鎖で不幸ばかり襲ってきたり、人を恨んだり、社会を恨んだり、親を恨んだり、とにかく自分ではない“何か”に責任を押しつけてしまいます。

 

 この状況から抜け出すためには、弱い自分としっかりと対峙する必要があります。弱い自分を見て見ぬふりをしていくら体面をよくしたところで、いつか必ず失敗しますし、あとになって後悔したときには何より心の中で自分自身が泣いているのです。

 

 気づけない人が気づくためには何かきっかけが必要です。自分だけで気づくこともありますが、周りの人が根気よく教えてあげることで気づける場合もあります。人間というのは、頭の中でいくら拒否をしていたとしても、何度も何度も言われているうちに否応なしにそれについて考えるようになります。気づくためには自分で考えて行動しなければいけません。

 

 一度気づくことができれば、実感として気づくことの大切さが理解できますから、自分で考えること、知識の大切さが分かるようになってきます。もちろん、また同じ過ちをくり返したり、ほかの失敗をすることもあるでしょう。しかし、広い視点で考えれば、カルマをひとつ浄化したわけですから立派な前進と言えます。

 

 気づきの道か、気づけない道か、どちらを選ぶかは自分次第です。一見、気づきの道が怖そうに見えるのは、これまで自分が作ってきた悪いカルマの仕業です。悪いカルマによって正しい判断ができないから、気づきの道が怖く見えてしまうのです。しかし、永遠に続く負の連鎖を断ち切るには、気づきの道を歩んでいかなければいけませんし、その道は恐怖でもなんでもない、幸せへと続いている道なのです。

 

 

 

 

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