愛にはさまざまな形があるとともに、類似した感情もいくつか存在します。恋、友情、尊敬などがそれです。
中でも最も類似点が多くて混同されがちなのは、恋であると思いますが、恋と愛の間には大きな隔たりがあります。
人間と人間の関係性においては、「恋」は自分の気持ちが主軸になるのに対し、「愛」は相手の気持ちが主軸になるので、双方向で思い合わなければ成り立たない感情なのです。
ただし、以下のふたつは双方向とは言えない例外的なものです。
まず、「受け取るだけの愛」
赤ちゃんが親の世話を受けることに代表される愛の形です。赤ちゃんは愛を受け取ることはできても、自らの愛を与えるだけの力はなく、行動も起こせません。これは限定的な関係においてのみ見られる形と言えるでしょう。
そして「無償の愛」。
母の子に対する愛情というのは、本質的には相手からの見返りを求めません。もちろん、かけがえのない命を授かっただけで、“愛”を授かったと言うこともできます。
これはある種の極限ですが、普段の心構えとしては生かすことができます。
愛はただ、与えるもの。相手から見返りを求めない。
そういった認識でいれば、人とぶつかることも減り、より穏やかな気持ちで生きることができるはずです。もちろん、「無償の愛」までいくと理想論になってしまうのですが、愛する人との関係性を良好に保つうえでは、ある程度必要な考え方であると言えるでしょう。
ちなみに、「見返りを期待して愛する」「愛してくれるから私も愛する」というような発想をする人がよく相談に来ますが、それは本物の愛とは呼べないのではないでしょうか。
見返りを期待するのは、いわゆる「片思いの恋」にあたり、自分が好ましく感じている相手に振り返ってほしいがゆえの感情です。たとえば、恋愛テクニックなどの表層的な概念も、どのように行動すれば相手からの見返りを得られるかを解いているものですので、本物の愛を語っているとは言えないと思います。
自分を愛してくれる人を好きになるというのも、結局は自分にとって都合のいい人を選んでいる心情であり、双方向の愛とは言えません。
続いて、愛の意味をよりはっきり浮かび上がらせるために、対極にあるものを比べてみましょう。
愛の反対の意味を持つ言葉を考えてみたとき、多くの人の頭には「憎しみ」という言葉が浮かぶのではないでしょうか。
しかし、カトリック教会の修道女であり、神と貧しい人々のために活動し続けたマザー・テレサは、愛のひとつの側面をよくとらえたこんな名言を残しています。
「愛情の反対は憎しみではなく、無関心」
なぜ、無関心なのでしょうか。
憎しみとは、特定の相手に対し憎悪を募らせることです。宗教や人種差別といった思想的、盲目的な憎しみは別として、人を憎むにはそれ相応の「理由」があるはずです。
私のところに相談に来られる方で嫁姑のトラブルから憎しみまで抱いているケースでは、大概、いかに相手が憎いかを話す際、“どんな人間でありどんな特徴があるのか”を詳しく私に伝えようとします。一方的に自分から見た相手の情報を伝えることで、自分の憎しみの根拠や正当性を訴えているのです。
もちろん、その人のカルマまで含め神が判断されますから、自分の利益だけを考えた一方通行な考えは通用しません。
ここで考えてみていただきたいのは、憎い相手に関しては、実は誰よりもよく知っているほど詳しいものであるということです。
たとえば、みなさんにとって憎い相手がいるとします。
飲酒運転の交通事故で幼い息子の命を奪った相手……憎い。相手はいったいどんな人間で、どんな人生を歩み、なぜこんなことをしたのか?
夫が若い女性と不倫をしている……憎い。相手はどんな容姿で、どこで出会って、どうやって夫をかどわかしたのか?
得体の知れないものに関して、人は憎む前に恐怖を覚えます。憎しみの対象(人)を自分の中でどんどん具現化していくことで、恐れを取り除き、憎む気持ちを鮮明にしようとするのです。
これはすなわち、相手に強い関心を抱いているということにほかなりません。
相手への関心という意味において、愛と憎しみは実は同一の存在。コインの裏と表のようなものです。
愛憎を相手への関心の形とするならば、その反対は無関心となります。愛が憎しみに、憎しみが愛に変わることはありますが、愛が無関心に変わるようなことは起きません。
なぜなら、対極に位置する個別のものだからです。
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