青森の神様 木村藤子の公式ブログ 日々の暮らしから得る気づき

透視人生30年以上のキャリアで培ってきた、誰しもが幸福になる生き方、考え方をお伝えします。

「感覚派」の人たち

 自分で自分のことを理解しようとするのは意味のあることですが、絶対的な答えがあるわけではありません。理解したと思っていても、それは “自分でそうだと思い込んでいる自分” かもしれませんし、そもそも人間自体、時間とともに変わっていくものですから、ひとつの状態に留まるものではありません。

 

 人間というのは、見聞きするすべての物事に自動的に “反応” します。その反応の出方というのは人それぞれ違いますから、それが “個性” というものです。

 

 この反応の仕方は何で決まるかというと、それまでに得た経験や知識など、あらゆる情報を土台としてできあがっている考え方(性格)です。しかし、考え方は変えていくことができますし、意図せずとも変わっていったりもするものですから、生まれてから死ぬまで、一生同じような “反応” をするということはあり得ないわけです。

 

 10年前に好きだった映画を再び見てみたら嫌いになっていた、といったようなことは日常的にあることなのです。

 

 ですから、“自分” とはとても主観的なものであって、しかも時が経てば自分というもの自体、変化していくものなのです。

 

 そのように、自分というものは絶対的、決定的なものではありません。少し哲学的な問答になってしまいますが、「自分を探している自分」が「自分」ですから、自分探しというのは、“納得できる自分” を探す旅であると言えるのではないでしょうか。

 

 納得できる自分の理想像というのはひとりひとり違うものですが、真の幸福を求めるならば、「人のために生きられる人」になることが理想です。

 

 そういった意味で、「感覚派」と自分のことを言ってしまうのは、はたして本当にいいことなのか? ということをよく考えていただきたいのです。

 

「私は感覚派だから」というと、どんなイメージを持たれるでしょうか?

 

 世間では、「自分を大切にしている人」「感性を大切にしている人」といったような、ポジティブな印象を持たれるのではないでしょうか。たしかに、感覚で生きている人というのは感情表現が豊かですから、人間味のある人ととらえることもできます。

 

 しかし、もっと詳しく考えていくと、感覚で生きていくのは非常に不安定で、危なっかしい生き方とも言えるのではないでしょうか。

 

 感覚で生きるというのは、外からのあらゆる情報に対して、条件反射的に反応をするということですから、場合によっては人を傷つけてしまったり、摩擦を起こしてしまうことがよくあります。

 

 しかし、おそらく「感覚派」の人たちは、こうした人とぶつかることを怖れないのではないかと思います。それはなぜかと言うと、「自分」に対して絶対的な自信を持っているからです。

 

 自分を信じてあげるというのは大切なことです。自信を失ってしまうと思考力と行動力を失ってしまうので、何かを始めることができなくなってしまい、それは人生の停滞を意味します。ですから、自信というのはある程度持っていなければいけないものです。

 

 しかし、感覚派という人はこの自信がいきすぎて、「絶対、自分が正しい」とか、そこまではいかなくても、「相手が正しいかもしれないが、自分の考えに従おう」などといったように、“自分” にあまりにも執着しすぎているように見えます。

 

 もちろん、条件反射的に “正しい反応” が出てくるのであればよいのですが、人間はそこまで完璧には生きられません。感覚派の人は、そのときの自分の感情に対して素直ですから、後悔もあまりしないかもしれません。そういった意味では、“自分にとってよい生き方” と考えることもできます。しかし、自分の知らないところで、周りの人が気を遣ってくれていたり、迷惑を被っていたりするということを忘れてはいけないのです。

 

 また、学びの機会をなくしてしまうという心配もあります。

 

 自分の感覚を過信していると、自分の感性がよしとするものしか受け入れなくなってしまいます。

 

 私は拙著で口を酸っぱくして、繰り返し知識の大切さを説いてきました。

 

 知識は自分ひとりでも蓄えることができますが、限定的です。どれだけ能動的に知識を蓄えていたとしても、やはり限度があるのです。

 

 しかし、私たちはたったひとりで生きているわけではありません。家には家族がいて、外に出れば友人、同僚、恋人、他人、あらゆる人が存在しているわけです。そして、そうしたひとりひとりの人間も同じように知識を蓄えているのです。しかも、その人たちが持っている知識の中には、自分ひとりでは絶対に得ることができない知識もたくさんあるのです。

 

 私たち人間は、興味がないことには関心を示しません。もし、そこに有益な情報があったとしても、自分の興味が向かなければ知る由もないのです。

 

 インターネットとはまさにそのことを視覚的に表しているかもしれません。

 

 インターネット上にはあらゆる人間の知識が記録されています。情報の海のような感じですね。何か知りたいことがあると、その海の中から自分が必要とする情報(A)を見つけるために、キーワードとなる語句を打ち込んで検索します。

 

 しかし、この “自分が打ち込んだキーワード” に合致する情報(Aのひとつの側面)は見つかるのですが、それ以外の情報(情報Aの違う側面)は出てこないので、能動的に情報を蓄えてはいるのですが、“自分の中から出てくるキーワード” 以上の情報にはたどり着くことができません。

 

 仮に誰か違う人が同じ情報(A)を検索するとします。すると、使用するキーワードが違ってくるので、必然的に検索されて出てくるものは、情報(A)の違う側面であったりします。

 

 物事のとらえ方というのは多面的で、人の解釈の数だけ存在するでしょう。ですから、あらゆる角度から見た情報というのは全体像を知るうえではとても重要なことなのです。

 

 日本には昔から、「三人寄れば文殊の知恵」という諺があります。

 

 これは、どんなに平凡な人でも、三人集まって考えればよい知恵が出てくるものだ、といった意味になります。

 

 私なりにこの諺の真意を考えると、“物事は多面的であり、ひとつの側面から見ただけでは本質を突いているとはいえないから、判断を誤ってしまう。そうならないために、多くの人の知恵を共有して、より全体像を知って正しい判断をしよう” ということだと思っています。

 

 感覚派であること自体は悪いことではないでしょう。しかし、どんなときでも人のおかげで自分が成り立っているんだということを忘れてはいけないのです。過信し、独りよがりになってしまっては、いつか限界が来てしまいます。

 

 知識を多く蓄えていくと、物事をいろいろな角度から見ることができるようになるため、表現も豊かになります。

 

 “自分” という感覚だけに執着しすぎないよう、ときにはあえて、自分の感覚に疑問を持ってみることも大切です。

 

 

 

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