例えば、幼くして亡くなった大切なお子さんがいたとします。
当然のことながら、親はとても苦しみます。そしてその苦しみは長い間続くかもしれません。
しかし、それでもその子はまた必ず生まれ変わってくるのです。
カルマの意味を理解し、それを信じることができれば、少しでも苦しみは薄れるのではないでしょうか。
確かに、自分の子どもが亡くなることは、筆舌に尽くしがたいことだと思います。
なぜわが子が幼くして亡くなってしまったのか?
そこには、必ずそれなりのカルマという理由があるのです。
どんなに辛くやるせない出来事であっても、前世からのカルマという理由があるのです。
それは、その人にとってのカルマの解消であり、スピリットを磨くための道のり。つまり、この世の修行なのです。そのカルマの修行に気づき、理解することによって、心の中の灯が光り始めます。
私は「心の豆電球」といっているのですが、カルマに気づくことによってその豆電球の光が暗闇の中で大きくなっていく。一見不幸と思えることにも意味があり、それを理解し受け入れることでスピリットの成長の糧にできるのです。
それができれば、子どもの後追い自殺をしたり、子どもの死が原因で夫婦が離婚するというような、さらなる不幸を招くことも防げるのではと思います。
どんなに辛くても、過去にしがみついたり苦しむだけでなく、気づいて、直しあって、山をよじ登るが如く前進しなければいけない、それが現世ロードの道のり、カルマの修行なのです。
自分の子ども、夫や妻、恋人や兄弟姉妹、あるいは長年一緒に暮らしていたペットが急に亡くなってしまったことで苦しむ人はたくさんいます。
愛する人や動物との死別の苦しみから抜けるためには、まずこの輪廻転生、カルマの法則を知ること。それだけでも苦しみから抜けることができます。
自分の運命、カルマを知ることで心の豆電球が明るくなる。
私もこの仕事をしていて、自分自身がそんな体験をしたことがあります。
かつて私は、理解してもらえない無念さのために、この仕事をやめたいと思ったことがありました。
それまでの私は、「やればいいんでしょ?」と神に対して問い続け、ただただ仕事に夢中で過ごした日々の中、休むことなく走りっぱなしでいた自分がいました。
しかし、ふとそこで改めて自分のことを考えてみたのです。
なぜ自分はこの田舎に生まれ、田舎で過ごし、全国の人と関わっているのか?
なぜテレビに出るのか? なぜ本を出すのか?
なぜ、なぜ、なぜ……。
そしてようやく気づきました。
「そうか、私は田舎に生まれてよかったんだ。もし東京や大阪などの大都会に生まれていたら、それなりに見栄えのいい生活をしながらお金を稼ぐことに専念していたかもしれない。あるいは弟子をとったり、タレントのようなふるまいをしていたかもしれない。
田舎に生まれたからこそ、田舎者らしく質素に、弟子もとらずに毎日コツコツとやってこられた。これが神が私を使う目的に適していたのか」と。
主人にいわせると、いかに毎日気を張っているのか、私は寝言まで相談に応じていると笑われますが、全国の環境の違う方々との出会いの中、言葉のハンデや意思の伝達の仕方など、それだけもまれながらやってきたこと自体が努力であり、また苦労であり、他の人たちと同じように私のカルマであり、それを超えなければいけない道だと改めて気づいたのです。
すべての相談者が満足して帰られるわけではない。時には捨てぜりふをはかれたり、同業者が数人入ってきてわざとらしい突っ込みをして非難されたり、インターネット上であることないことを書かれたこともあります。
でも、それらを乗り越え努力しつつ、この仕事を続けることによって、私のカルマも少しずつ消えていくのだ、と。
皆、人それぞれに善いカルマ、悪いカルマがあります。
この世に生まれてきている限り、誰しも例外はありません。
私には私のカルマがあり、あなたにはあなたのカルマはある。
私には肉体労働や医師のような仕事はできないだけ。透視能力者も他の職業人と変わりなく、たまたま透視の分野に携わっているだけのこと。ですから、私を含めてどんな透視能力者であっても特別視するのは間違いです。
どんな人も、各々の運命の中でスピリット磨きのためにこの世で与えられたその人のカルマにあう仕事をしている。だからこそ誰もが平等で、人間の世界でいわれる上・下というのは輪廻転生の回数とともに気づいて直すことによって向上できるものであることを見逃してはいけないと思います。
また、だからこそ「人生が修行の場」ともいえるのであって、善・悪のカルマの一方に偏れば、この世は修行の場ではなく、この世への誕生も無意味となるわけです。
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