仏教に「善因善果、悪因悪果」という言葉があります。
これは、善い行いは善い結果を生み、悪い行いは悪い結果しか生まないという意味です。つまり「因果応報」ということで、そのような知識があるかないかが、その人の人生を大きく作用するわけです。
何か困難な問題が起きると、自分の知識不足が原因とは思わずに、相手に問題がある、子供に問題がある、主人・妻に問題がある、会社に問題がある、社会が悪い、などと常に人のせいにする。
これが知識不足の人の特徴です。
ようするに、知識不足ゆえに自分の愚かさを知らないわけで、プライドだけが高く、自分自身のことも、相手のことも、社会のことも知らないでいることさえ気づかないでいるのです。
知識が足りない人は理解力や判断力が乏しいために、困難な状況を招いた根本原因が、自分自身の心の不足や愚かさであることに気づこうとさえしません。
逆にいうと、気づくためには、まず、自分の不足を知る、自分の愚かさを知ることです。
たとえ自分の専門分野であっても、知識不足に気づいていない人もいます。
また、いくら荒行(身体を酷使する厳しい行)をしても、心ができていないと神は透視や霊能という御利益を授けません。
どんな行をしても、いくらその時だけ苦しい思いをしても、心が養われておらず、神が使ううえでの不足があれば、我欲に走ったりするからです。
かつては、スピリットが目覚めるためには難行、苦行が必要とみなされた時代がありました。
しかし私は、かねがね水行や荒行といった難行は必要ないと思ってきましたし、実際、透視力を授かるのにそのような修行をしたことはありません。
ですから、息子に対しても、「いくら滝行や寒行してもそれは一時のことである。荒行をする必要はない」といっています。
たとえ荒行をくり返したとしても、人間として根本的に心を変えないと、どんな人でも、カルマという心の垢、汚れが出てくるのです。
これは私自身の体験を通して気づいたことですが、ある時、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』(新潮社)という本を読んで、お釈迦様も同じことをおっしゃっていたことを知り、とても感激したものです。
お釈迦様は、幼小の頃の名をゴータマ・シッダールタ王子といいました。
青年になったシッダールタ王子は、生老病死で苦しんでいる民衆の姿に心を痛め、城を捨てて修行の旅に出ました。
そして難行苦行の末、衰弱して倒れ、スジャータという娘に助けられて、「行では悟りは得られない」ことに気づきます。そして菩提樹の下で瞑想をして悟り、ブッダ(悟った人)になったといわれています。
いくら難行苦行を続けても、カルマを克服することはできない。いくら肉体をいじめても、心ができなければ人は何も得ることができない、ということに気づいたお釈迦様。
私はお釈迦様が自分と同じ結論に至っていたことを知って、自分は間違っていなかったと、大変感動したものです。
大事なのは、自分自身のカルマという心の垢、汚れに気づいて、それを取り除いて克服していくことです。
そのために必要なのが、正しい理解力や判断力を得るための知識です。
そしてそれを成しとげる意欲と努力。知識と意欲さえあれば、カルマは克服できるのです。
私は宗教宗派も関係ないと思っています。何の宗教宗派でも「自分にある宗派で心を磨けばそれでよい」と。他の宗派を悪くいうのは心の不足であり、愚か極まることです。
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