真っ直ぐな子供の心を養うのは、親の知識。それを代々語り継いでいくのは親の務めであり、家族の言葉、行動の積み重ねが一つひとつの知識として生きてきます。
そのように、人生を幸せで豊かに生きていくための知識というのは、何百万、何千万とあります。
例えば、本を出版するにも、たくさんの過程を経て、出版業界や印刷の知識のうえで一冊の本となるわけです。
また、病気に対しても身体の知識や薬の知識、漢方薬や養生の知識などが必要です。
あるいはまた、洋服をつくる知識、お米をつくる知識、家を建てる知識など。衣、食、住、それぞれに使用される素材がどのように製造され、加工され、流通されているかも生活に密着した知識です。
冷蔵庫や洗濯機などの家電製品にしても、細かな生活必需品にしても、テレビやコンピュータなどの精密機械にしても、それぞれに専門的な知識がなければ何一つつくれません。
そう考えると、私たちが生きていくうえで、個々の人間はいったいどれほどの知識を得ているでしょうか?
おそらく、学校や家庭、職場や趣味で得た知識などではないかと思います。
でも、社会には自分の知らない膨大な数の専門職があり、それぞれに専門知識があります。
さらに、一般の人はあまり知る機会がない知識、例えば、最先端の自然科学や宇宙、地球環境などに関する知識は日進月歩の勢いで増えています。
ならば、自分が知っている知識は、全体のわずか0.0001%にも満たないはずです。
にもかかわらず、「自分は何でも知っている」かのように思い込んでいないでしょうか?
特に、有名大学を出ていると、それだけで「俺様は…」というエリート意識を持ってしまいがちです。それゆえに、人に疎んじられる不幸を招くのです。
でも、実際には0.0001%の知識だけで、誰もが99.9999%は何も知らないのです。
まず、この事実に気づくこと。それが大事なのです。
自分は知っているつもりで実は何も知らない。
つまり、「知らないことを知る」、これが気づきの法則です。
ここから出発することが気づきにつながります。
「自分は数多くのことを知らない」ということに気づくためには、“常識” と思われていることでも、本当に正しい知識かどうかを吟味してみる必要があります。
例えば、「私は神さまを信じているので、毎日一所懸命に拝んでいます」という人がいます。
たぶん、神は何でも願いを叶えてくれると思っているのでしょう。
ですが、それは神についての正しい知識ではありません。
神は私たち人間が自立をするための補助役であって、のめり込む対象ではないのです。
神や宗教にのめり込むくらいなら「知識を得なさい」と私はいいたいのです。のめり込みすぎて、心ができずに我だけの「我欲信仰」になってはいけないということです。
本を読むこと、人の話をちゃんと聞くこと、相手を理解すること、ものごとの成り立ちを知ること、社会のルールを知ること、そうしたことの知識を得ることの方が、神や誰かに依存することよりももっと大切です。
なぜなら、神も、私たち一人ひとりの自立と調和、つまり人間の平和を望んでいるからです。
自立するにも知識が必要です。幅広い莫大な知識があることに気づかないことは、大変危険なことと思います。
それは、歩み進んだ道路が突然地震で崩壊されたが如く、知らないためにその先の道がなくなっていることさえ考えず、気づかず、自分ひとりの思い込みで歩き続けるのと同じなのです。
ですから、自分がわからないことや知らないことがあったら、「なぜ?」「どうして?」「それは何ですか?」と素直に聞ける謙虚さを持つことが大事です。
特に日本人は、大人になると「なぜ?」「どうして?」「なぜなら……」という会話をしなくなります。
でも、誰でも小さい頃は、「なぜ?」「どうして?」と親や先生に尋ね、大人も「それはね……」と自分なりに考えて答えていたはずです。
そのようにして学び、多くの知識を得ながら人間的にも成長してきたわけです。
ところが、ある程度自分の専門分野の知識が増えたり、高校や大学を卒業すると、いつしかもうすべてわかったつもりになってしまい、無意識のうちに学ぶ努力が少しずつ遠のいていっていることさえ気づかないのではないでしょうか。
わかったつもりは、実はわかっていない、つまり知識が足りないのです。
そのためには、一生涯勉強です。つまり、幅広い分野の読書など、体験を通して得た生きた知識こそが人生において大きな意味を持つのです。
【私にご質問いただけるメルマガはこちら】
まぐまぐ で登録できます。
【YouTubeチャンネル】