これまで気づきの大切さについてお伝えしてきたことで、私なりに大変な苦労もありました。
相談者が幸せになることを願って欠点をいうと、腹を立てられ、地元市内のあちこちの立ち寄って「怒鳴られた」「二度とこんなところへ来たくない」「金儲け詐欺だ」などなど……。
私にとってとてもつらい時期でしたが、しかしながら、おかげさまで最近は、「自分に問題があった」「自分の欠点、不足について知りたい」となんでも自分のこととして捉えられる方々が増えてきました。
ある時は、極端な話、「私を怒鳴ってください。怒ってください。欠点を直すためにはどんなきつい言葉も聞きます」などとストレートにいわれる方も。
そのような方々は、こちらがズバリその心の不足を指摘しても、「やっぱり、そこですか」とすぐに理解され、自ら欠点を改めようとされます。
しかし、なかには一方的に「怒られた」「説教された」と憤慨する方々もいます。
どうしてこのような違いが生じるのか?
正直、私の心の中は、「???」になります。
「いわれたことない」「自分には関係ない」「それは他人の問題」と思っている人には、たとえ「置かれた場所で咲きなさい」といったとしてもなかなか心に響かない……。
一方、「いわれたことを聞こう」「自分に関係がある」「自分の問題」と捉えられる人は、すぐに「そうか!」と心に響くので、改められます。そこには、自己責任感と相手から学ぼうとする姿勢があるのです。
そのように、自己責任を果たすことと、学びあえるあわせ鏡としての存在があってこそ、気づくべきことに気づけ、その経験を活かしてその人らしく輝くことができるのです。
例えば、著書の編集に携わっている方々とも縁があり、お互いに関係があるから一緒に本づくりをしているわけです。
出会う前はそれぞれにいろんな経験を経ながら、関係があるから出会った。
そして、与えられた場所において、お互いの知識の倉庫から必要なものや知恵を出し合ってよい本をつくっていく……。
ある編集の方は、やりがいのある仕事を失い、その後離婚したのをきっかけにうつになり、時折自殺願望が首をもたげながらも、「明けない夜はない」「越えられない壁はない」とずっと自分にいい聞かせながら、自分の欠点、不足と向き合ってきたそうです。
だからこそ、そうした経験があるゆえに今の仕事にもその時の辛かった経験が活き続け、よい仕事もできるのだと思います。
彼のつらい体験が彼をワンランク大きくし、神が求める書籍をつくりあげる役目として使われ、私の言葉を全国の方々により理解しやすいように編集協力させるための神の意図でもあったと思います。
このように、自分の体験した、とりわけ苦しかったこと、辛かった経験をバネにできれば、やがてはその経験を活かせる新たな場が与えられるのです。
「運命が丸裸になる」と、
驚きの声、声、声!!
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