あなたの願いを叶え、幸せを手に入れるためには◯◯行をしなければいけない。
不幸の原因は、神の通り道である霊道だから。
あなたの人生がうまくいかないのは、悪霊が憑いているから。
困っていたり、悩みを抱えているときに、いかにも能力者然とした人からそういわれれば、見えない世界の話だけに、つい信じてしまう人がいるのも仕方がないことかもしれません。
もし、神の通り道である霊道に人間が家を建てたから不幸が続くとか、子供が非行に走ったということが本当にあるならば、私は断じて神を許せない。なぜなら、人間の住む地球の一部である土地を買い、家を建てた。しかし、それが神の通り道であるから人間を不幸にするような神であれば、それは魔の神であり、恐れる必要は何もないのです。このようなことがいわれ続けるのは、それを信じさせる側、また、信じる側の幼稚さゆえです。
真の神は、「本人の心のあり方が幸せを呼ぶ鍵」であるということに、一人ひとりが気づいてほしいと願い、また、守護神・守護霊を通して私たちを幸せへの道へと導きたいのです。
ところが、宗教に限らず、見えない世界に興味のある方々の中には、「何かの行をしなければ自分の願いが叶えられない、幸せになれない」と思い込んでいる人も少なくないようです。
ですが、それは間違った知識です。神は、身体を痛めつける荒行と引き換えに幸せを与える、などということはいたしません。
幸・不幸は、あなたの心次第。
何度もいうようですが、心が磨かれていなければ、たとえどんな行をしたとしてもカルマという心の垢、汚れが必ず出てきます。
心を磨くというのは、心にしみついた汚れや不足を自覚して、それを改めることです。
心の汚れとは、性格上の欠点であったり、間違った考え方(偏見や思い込み)、強欲、見栄や恨み、つらみ、妬み、人を見下したりおとしめるような態度などで、そこに悪いカルマの種があります。
その種を自ら刈り取らなければ、カルマを克服・解消することができません。
トラブルが起きたり、つらいときこそ、カルマがもたらす心の汚れや不足に気づくチャンスです。
一見不幸に思えたり、ピンチに遭遇したときこそ、心の汚れを浄化して一つずつカルマを解消しながらスピリット(精神・魂)を向上させることができるのです。
それがわかれば、荒行をすることの無意味さや、力を誇示するがために人が驚くようなことを能力として見せる行為などは、スピリット(精神・魂)の向上とはまったく関係ないということも理解できると思います。
むしろ、多少霊的な能力があることで自分は特別だと勘違いする人も多く、そのためにかえって人を指導する立場であるがゆえにカルマの汚れの上塗りをしてしまうことも珍しくありません。
人が真似できないような荒行を重ねることをよしとする心のみで、神が望む心になれない場合、我欲(自己顕示欲や虚栄心、支配欲など)を助長し、カルマに気づくための自己観察(内省)や謙虚な姿勢を失って、無自覚のまま悪いカルマを増やしてしまうおそれがあるからです。
ある教団の中には、苦行を指導し、土中のコンテナで何日間も瞑想する修行、水中で息を止める修行、逆さ吊りになって肉体に苦痛を与える修行、果ては薬物を使った神秘体験など、驚くような修行を一心不乱に続行させたといいます。それによってカルマが解消できる、と信じて。
しかし、ただ人を驚かせるような程度の低い霊的能力は、神仏ではなく、低級霊の働きにほかなりません。
命をかけて行う水行や滝行などの荒行も、ただ自分の身体を痛めつけるだけのことであり、そのような「荒行は、完璧に心の修行として生涯持続するのは困難である」、私は20歳の頃からそういい続けてきました。
心ができない(磨かれない)ままに悟りを求めようと、荒行を続けていても、必ず苦難の行が癒えた頃、心のリバウンドが起きます。
行をしなくても、心から自分の欠点に気づき、直したならば、自分の得た知識の一つとして、たとえ欠点を繰り返したとしても、すぐ反省ができます。その「すぐに反省できる心」がないと、夫婦間の不和や職場での孤立など、さまざまな人間関係の崩壊につながります。
つまり、「欠点に気づける」ということは、すぐ自分の心、我欲を省みることができ、反省が早くなり、その結果、人を許す心、寛大な心ができる。それこそが神が求める真髄であり、しっかりとした判断力や理解力を養いながら、素直な心でスピリット(精神・魂)を磨いていくことになるのです。
若い頃、難行苦行にあけくれたゴータマ・シッダールタ王子(お釈迦様)は、数種の荒行の結果、死の直前まで行き、そこで「いくら難行苦行を続けてもカルマを克服することはできない。いくら肉体をいじめても心ができなければ人は何も得ることができない」と悟り、ブッダ(覚者)となったといわれています。
まったく同感です。
私は行の経験はありませんが、神は私に透視能力(ご利益)を授けるがために、理解力と判断力などの心を求めました。
私はその求めに対して己の心を徹底的に見つめ、まるで試験に合格するがごとく、トップの神からOKサインが出て、初めてご利益を授かったのです。
当時は、この道が嫌で仕方なかった私です。神もこんな私の心に対し、ハラハラしながら不足を直し、「嫌がる駄々っ子」をなだめながら、私を使ったわけです。
今さらながら、神への反発を心で詫びる日々です。まるで親に対するような気持ちで……。
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