青森の神様 木村藤子の公式ブログ 日々の暮らしから得る気づき

透視人生30年以上のキャリアで培ってきた、誰しもが幸福になる生き方、考え方をお伝えします。

神仏を守る

 昔から、日本人の習慣として、神仏の前では両手を合わせて頭を深く垂れ、感謝の祈りを捧げてきました。

 

 また日本人に限らず、古今東西、どんな宗教宗派でも神や仏に対して祈りを捧げる風習があり、それは現代に引き継がれています。

 

 日本の家庭には、たいてい神棚か仏壇があると思いますが、それは本来、「神(仏)を守る」ための場所であり、「守られている」ことを認識するための場所とも言えます。

 

 しかし、神々はこの世の人の目には姿が見えないがゆえに、この世において「見える場所」「形のある場所」で祀ることによって、神仏の存在を絶えず認識できます。仏壇に手を合わせることにより、大切な方々に対して感謝をしたり、心も和みますし、また、神棚にお札を祀り手を合わせることにより、神の存在を認識できるのです。

 

 お盆やお正月、先祖の命日などの限られた場合であっても、その時々にお供えをしながら家族全員でご挨拶をし、日頃の感謝を伝える機会として、良き連鎖の中で引き継がれ、行われてきたのです。

 

 そのように、神棚や仏壇に向かって手を合わせて、心から感謝の誠を捧げているならば、その行為もりっぱな神との交流であり、私たち人間は「神を守っている」ことになります。

 

 中にはマンションやアパート暮らしで、神棚や仏壇がない家庭もあるかもしれませんが、それでも時折、実家で祀っている神仏や先祖のことを思い出したり、お墓や神社、寺に出向いて感謝の誠を捧げていれば、それも「神を守る」ことにつながるのです。

 

 中には、「神仏は信じていない」という人もいるかもしれませんが、そのような人であっても、肉親が死んだら涙を流し、手を合わせるのではないでしょうか。

 

 私たちは「神に守られたい!」という意識については自分で認識できていても、日頃「自分も神を守っている!」ことについては、あまり考えない方もいるのではないでしょうか?

 

 神棚やその上のお社、神のお札やご神体を入れる所の掃除をするのもいいでしょう。それも「神を守っている」行為と言えるのです。

 

 神は一般的に人と直接会話をしたり、姿を見せることがないので、神棚がほこりだらけでも、水や塩など何一つお供えしなくても無言です。ですが、「苦しい時の神頼み」ではなく、常日頃神仏への思いやりも大切だと思います。

 

 私はこの仕事をして、あまりの忙しさに、神へのお礼の言葉さえなかなか発することができませんでした。人間として生きている限りさまざまなこともあり、私や家族がとんでもない災難に遭遇して、何事もなく通り過ごした瞬時の出来事に鳥肌が立つ思いも幾度となく経験しました。

 

 それでも、おいそれとすぐに「アーッ、助けられた! 神様! 仏様!」といかない私ですが、後になって、さすがに神仏のご守護を痛感し、自然に頭を垂れ、心から手を合わせるなど、そのように感謝の心を感じざるを得ない出来事に遭遇する度に、しみじみと神仏の存在を感じます。

 

 それは私だけでなく、皆様方もそのような体験を重ねる中で、それぞれの関わりの神仏を「守って、守られている」のです。

 

 「神様や仏様は一番偉い!」という一般的な考え方があるようですが、私は、「神仏とは汚れのない心の交流が大切」と考えています。私の神に対する認識は、「上司でもあり、親であり、友であり、何でも遠慮なく、たとえ口べたなことでも私の心が伝わる相手」と思っています。

 

 ですから、仕事で忙しくてなかなか自分で作れないのですが、自分でお味噌汁を作った時、「あーっ、おいしそう!!」と思えば、すぐに作りたてをお供えします。お椀から沸いてくるような熱々を大喜びの心で__(心の中で微笑んで、神に少しばかり自慢しつつ……)。

 

 親しい人に対して感謝と思いやりをもって接するように、神仏に対しても自然な感謝と思いやりをもって接することによって神仏も喜びます。つまり、それもまた「神を守る」ことになるのです。

 

 「神を守る」場合、順調にいっている時には神仏に手を合わせることがなくても、人生のどん底に落ちた時、そこで初めて神仏に助けを求めることもあるでしょう。

 

 かくの如く、人間とは弱い生き物です。

 

 うまくいっている時は、見えない世界や神のことなどまったく気にかけない。

 

 ところが、思いもかけず辛い状況に置かれたり、人生の谷底に落ちてしまったら、そこで人間世界にない、見えない世界に、自分を超えた大きな存在に自然と目を向けるようになるものです。

 

 人は誰しも、愛情に飢えていれば、夫や妻、子供に愛情を求めたり、独り身であれば動物に、また歳を多く重ねるにしたがって、死後の世界に思いを馳せることもあるでしょう。

 

 そのような状況に直面して、精神的な支えとなるものに触れた時、「本当に助けられた」「よし、頑張って生きよう」「おかげさまで」などと生きがいを得たり、心から感謝ができるようになるのかもしれません。

 

 私は、どのような宗派であっても、そのように心の支えになり、その人がその教えを信じて人として心が癒やされ、前向きに生き「神を守り、神に守られる」なら、宗派の良し悪しはない思います。

 

 ただ、宗派のトップの人間性の問題ゆえに歪みを生じたり、組織を維持するための経費が追いつかずにさまざまな名目で寄付行為を要求することなどは、罪にこそなれ、「神を守る」とは言えません。

 

 持って生まれた一人ひとりのカルマ・魂が何を好むか、心が何を求めるか、それがその人の価値観や生き方を決定づけるのです。

 

 お金なのか、地位なのか、それとも平凡な家族の幸せか、あるいは精神的なものや宗教的なものなのか、それこそ人さまざまでしょう。

 

 いずれにしても、誰もが他の人の関心事とは異なる以上、各々の魂や価値観がぶつかり合い、お互いの人生を交差させながら、この世での自分のカルマを「与えられたその場所」で磨いていくわけです。

 

 

 

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