ブッダが説いた「難行・苦行では悟ることはできない」という教えは、心を磨くことの大切さを述べたもので、その意味で、キリスト教も仏教も同じことを説き、結局は同じところを目指しているように思います。
それはすなわち、スピリット(心・精神・魂)の成長です。
なぜ、スピリットの成長が必要なのか?
この世に生まれてくる誰もが、何らかの心の不足や欠点、それがあるがゆえの悪しきカルマを持っていて、今回の人生でやり直すチャンスを与えられているからです。
この答えが、そのまま、「なぜ、人は生まれ変わるのか?」の理由でもあります。
人生の壁、困難な状況は、その隠れたカルマの種を浮き彫りにし、清算するために起きる、避けられない出来事があり、それを「運命」というのです。
私たちの誰もが、カルマ、運命を背負い、現世において心の修行しながら、スピリットの汚れをきれいにしていくのです。
宗教とは、本来、その私たちの未熟な心を磨いて、高めていくための道しるべを示す役割を担っているはずです。
自分の心が汚れていると、どんな問題が生じるのか?
どうすれば、未熟で愚かな心を正せるのか?
心を磨くとは、どういうことなのか?
心の汚れをきれいにするために、本当に必要なこと、大切なことは何なのか?
心が成長していくと、どんなふうに人生が変わるのか?
こうしたことを、はっきりと指し示すのが、私たち宗教家の本当の役割なのではないでしょうか?
この世にあまたある宗教や、精神世界と呼ばれる分野の団体、グループ、個人も、本来、目指すべき山の頂は、スピリットの成長であるはずです。
その山頂に各ルートに添って登るがごとく、カルマ・運命を共有するグループごとに分かれ、それぞれのグループ同士が、途中の山道で折り重なるようにして出会いと別れをくり返しながら、新たな知識・常識を得て一歩一歩前進している、そんなふうに感じます。
一人ひとりがそれを成し得てこそ、真に平和で幸福な家庭が築かれるし、その目覚めたスピリットの輪が広がることが望ましい……。
ですが、この世に生まれ、善・悪があってこその苦しみ、喜びのカルマが接触しあうわけなので、そう簡単に悪しきカルマだけが消え去ることもまた難しいのが現実です。
それゆえに、どのようなグループであっても、一人ひとりが自己責任において、自分の魂の管理をしっかりしないといけなくなるわけです。
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