生きている私たちにとって、死とは非現実的な出来事と思ってしまいがちですが、どんな人間にも、平等にいつか必ず訪れるもの、それが「死」です。
ですから死が目前に迫っても、しっかりと平常心を保っていられるよう、常日頃から死について考えてみるのも大切なことなのではないかと思います。
まず、自分が死ぬということを想像してみますとどうでしょうか? 怖くて怖くて仕方がない、という方は多いのではないかと思います。漠然と自分もいつか死ぬんだなと考えて、怖くて悲しくてなかなか寝つけなくなったとか、死を考えることで不安になってしまったことがある方も多いのではないでしょうか。
人間はいつの日か必ず死ぬのにも関わらず、これまで誰ひとりとして死を経験したことがありませんから、死というものはどういうものなのかということを生きている私たちが知ることはできません。死は私たちが生きているときは存在せず、逆に死が存在するときは私たちはすでにこの世にはいないのです。
このように、自分の死というものは分からないからこそ不安になり、恐ろしさを感じるのではないでしょうか。しかし、いろいろな経験を積み重ね、死というものをきちんと考えながら生きていれば、不安はあれど、死の恐怖は少なからず減っていくものなのです。
いろいろな経験を積み重ねながらきちんと生きていくということは、知識や教養、正しい判断力を身につけていくということにほかなりません。知識や教養、正しい判断力があれば、「死は自分の存在が消えてなくなることではなく、魂の故郷であるあの世へ帰ることなんだ」「人は輪廻転生をくり返す存在で、死んで肉体はなくなっても魂は残り、また再びこの世に戻ってくるのだ」といったことが納得できるようになります。そうすると、死に対する恐怖というものは薄まっていきます。
また、自分の死を意識するとともに、自分の周囲の大切な人々の死についてもしっかり向き合い、受け入れていくことも大切なことだと思います。当然、家族や友人など、自分の大切な人が死んでしまうのはとても悲しいことです。人間は生きていれば悲しみを感じることはたくさんありますが、大切な人が亡くなってしまうのはもっとも悲しいことかもしれません。
私のところにも、大切な人の死による悲しみが消えず、立ち上がれずに苦しんでいる方からのご相談というのは絶えません。人間は生まれて、必ずいつか死んでしまうわけですから、自分も死から逃れられないように、大切な人の死というものもまた、自分が先に死なない限り受け入れなければいけない現実です。
特に、両親の死、連れ合いの死、自分の子どもの死というのはつらく悲しいものです。家族というものは、お互いに思いやることができるいい関係であれ、いがみ合っている悪い関係であれ、お互いのカルマが符号した深い縁で結ばれているわけですから、喪失感と悲しみで、何年かふさぎ込んでしまうのも無理のないことです。
また、家族や親しい友人ではなくても、たとえば同年代の死というのも、なんともいえない寂しさを感じさせるものです。歳を重ねると共に、去年はひとり旅立ち、今年はふたり旅立ち、気がつけば学生時代のクラスメートの半分はもうこの世にいない、ということに直面せざるを得なくなります。悲しいかな、歳を重ねるというのは、そうした悲しみをも受け入れていくことなのです。
なぜこのように、死というものは悲しさと結びついているのでしょうか?
それは、人間は現世しか認識できないからだと思います。現世しか認識できないとは、生まれて、生きて、やがて死ぬ、それが自分の唯一の人生としてしか実感できないということです。
このような感覚ですと、「死んでしまえばすべてが終わり、すべてにさようなら」ということですから、死は当然、寂しさや悲しさに結びつきます。自分の生に対する執着、やり残したことへの執着、友人、知人との別れへの執着、そうした感情が一気に湧き上がってきてしまうのです。
人間が現世しか認識できないことについては、誰もがそうでありますし、感情というものも自然と湧き上がるものですから、これは仕方がないことです。しかし、より大きな視点、つまり神の視点から見ることで、死の悲しみについてまた違った考え方を持てるようになります。
とはいえ、人間は神の視点を実態として感じることはできません。でも、神の視点で “考えてみる” ことにより、大切な人の死の悲しみを、少し和らげることはできると思うのです。
では、“神の視点から死の悲しみを見つめる” とはどういったことでしょうか?
それは、私が以前からお伝えしてきた、カルマや輪廻転生の法則に則って、死の悲しみを見つめるということです。
人間はこの世に生まれ、そして死んでいきます。これが現世における人生です。人間が認識できるのはこの現世だけですが、神の視点から見れば前世と現世とはイコールの世界です。現在の悲しみや喜びなどの出来事は、すなわち前世でのあなたの行為の結果なのです。
現世の自分というのは、前世の自分が解決できなかったカルマ、新たに作り出したカルマを引き継いで生まれてきます。そしてそのカルマを解消したり、また新しいカルマを作ったりして生きていきます。そして現世でのお役目を終え、やはりその人が持っているカルマ(この場合は寿命)によって死んでいきます。そうしてまた、残されたカルマは来世の自分(魂)が引き継ぐのです。
生と死というものは、半永久的に続くカルマの解消のため、輪廻転生の中でくり返すのです。くり返しくり返し生まれて、生きて、死に、また生まれて、カルマを解消して洗浄された魂を作っていくのです。
よく、死は平等と言います。どんな高い地位にある人でも、どんなにお金持ちでも、人間は必ずいつか死を迎えます。人間に限らず、動物、昆虫、植物、この世に存在する生きとし生けるものは必ず、死によってその命を閉じます。
死は誰にでも平等に訪れますが、その死に方は人それぞれ、さまざまな結末があります。なぜなら、現世の自分の “死に方” というのは、そのとき自分の持っているカルマによって違ってくるからです。カルマというのは人それぞれ違うものですから、当然死に方も人それぞれ違ってくるのです。
天寿をまっとうしての穏やか自然死、病気による死、不慮の事故や天災による死、殺人や自殺による死、死に方は千差万別。
誰しもできることならば理不尽な死ではなく、自分で納得できる死を迎えたいと考えることでしょう。現世しか認識できない人間にとっては、一回きりの人生、その締めくくりである死は理不尽なものではなく納得できるものでありたいと思うのは当然です。
しかし、どんな死に方であっても、カルマや輪廻転生の法則に則って見れば、その死は自分のカルマによるものであり、現世での役割を終え死を迎えたということになるのです。死に方が違うというだけで、そこには理不尽な死、納得できる死、といった尺度や優劣の違いはありません。死は、ただ人間が作り出した言葉上の「死」として訪れるだけなのです。
現世だけしか認識できないがゆえに、理不尽な死、納得できる死、といった尺度や優劣の違いを死に方に当てはめてしまうことで、“無念さ” や “後悔” が生じてしまい、悲しみを深くしてしまうことが多くあります。
たとえば、肉親が納得できる死を遂げたら、「悲しいけれどあの人も納得していることだろう」と悲しみを和らげることができるかもしれません。しかしその反対に、理不尽な死を遂げたら、残された人の悲しみは無念さで強くなってしまいます。
ですが、死というものはどのような死に方であれ、カルマや輪廻転生の法則の中、現世でのお役目を果たして、来世での誕生の準備期間に入ったということなのです。ですから、来世でもまたお互いに頑張ろうねと、穏やかな気持ちで送り出してあげればいいのです。
確かに死はつらく悲しいものです。しかし、悲しいことですが終わった命はどうすることもできなく、また自分も死から逃れられるわけでもありません。大切な人の死も、自分の死も、それは自身のカルマによるものであれば、受け入れざるを得ないのです。命と向き合うということは、人の死によって人との “カルマの縁” を考え、自分のカルマに気づき、解消していくということなのです。
そのように生きていくことは、経験を積み重ねて欠点を直しながら生きていくということであり、知識や教養、正しい判断力を身につけていくということなのです。そうして初めて、“死の悲しみ” にしっかりとした心で向き合えるのです。
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