夫婦となりし二人 互いにののしり合うは おろかなり
この詩は、夫婦の間の「慣れ」の恐ろしさをいい表したものです。
新婚時代は相手に気を遣っていたのに、日常生活の「慣れ」の中で、頭ごなしに相手を批判し、また相手も相手で、冷静になれずに、むきになっていい返す……。やがてはただの罵りあいになってしまう場合も少なくないでしょう。
そうして年を積み重ねて気づいたときは、お互い恨みつらみしか残っていない……。
拝殿の前で、そんなご夫婦の痛ましい姿を数多く見てきました。
せっかく、やり直すチャンスが与えられているにもかかわらず、このような関係のままでは、お互いに気づくチャンスを失ってしまうことになりかねません。
本当は、お互いの気づき、成長のために出会っているはずなのに、相手に対する思いやりすらなくし、恨みあう関係になってしまうとは、なんと寂しいことでしょうか。
このような結果を生じてしまった原点に、何があったのか?
夫婦それぞれに、何らかの自己中心的なものの見方、考え方、知識・常識不足があったことは想像に難くありません。それが欠点、短所です。
カルマの法則、スピリットから見れば、夫婦は凹凸、二人でワンセット。
それなのに、つい相手を見下げたり、相手の非だけをあげつらうようになってしまうのは、まさに自己本位な考えそのものです。
そんなふうになってしまうのは、「慣れの幸せ」という夫婦の落とし穴であり、お互いがそこに気づいていないのです。
最初は、二人とも相手のことをそれなりに尊重できていたはずが、いつしか慣れの幸せのうえにあぐらをかいて、「もっとこうしてほしい」と自分の我欲ばかりを相手に求め、それが満たされないと、「なんでしてくれないの?」「自分のことをちゃんと評価してもらっていない」という不平不満が高じてくるのではないでしょうか。
カルマを共有する最も深い関係なだけに、いつの間にか相手のことを自分の延長のように思い込んでいるとしたら、そこにこそ、自分では気づいていない欠点、不足、改めるべき短所が潜んでいます。
いくらカルマを共有している運命共同体であっても、決して自分の代役でも片割れ的な存在でもありません。
夫婦はもともと他人同士であり、その二人が一つ屋根の下で人生の苦楽を共にしていくわけですから、いくら愛情があるからといっても、自分とは違う人格を持っているパートナーとして尊重し、常に相手の状態に心を配りながら、適切な距離を持って接するべきです。
それが、お互いに、気づきのチャンスを活かすことにつながるのです。
それなのに、まるで自分の手足のごとく、相手にばかり要求をして、「◯◯してくれない」と不平不満をいうのは、まったくのお門違いというものです。
夫婦がうまくやっていくには、相手の欠点だけを見ずに、長所もちゃんと見てあげて、折に触れて「ありがとう」という感謝の言葉や、自分に非があったら素直に「ごめんね」と声をかけあうことがとても大事です。
たとえ、前世のカルマを解消するために結ばれた仲であっても、かたき討ちはまたかたき討ちという苦しみの連鎖を生むだけです。
大事なのは、「何のためにこの世でその人と出会い、共に人生を歩むパートナーとなったのか?」ということをよくよく考えてみることです。
全世界の人口は七十一億人以上、日本だけでも一億二千万人を越える人がいて、その中で、パートナーとして二人が出会う確率はいったいどのくらいでしょうか?
出会ったとしても、それが結婚にまで至るには、まさに運命的なものがなくては結ばれることはないでしょう。
カルマを共有している魂の仲間として、この世の道のりを一緒に歩んでいくパートナーとしての約束をしているからこそ結ばれたはずなので、その生涯を終えるまで、相手に対する思いやりや感謝の気持ちを忘れないことが大事です。
私たちはやり直すために出会っている、今回の人生という気づきのチャンスをムダにしない、そう心に念じながら、自分自身にも、また、相手に対しても素直に、正直になること。
そうすれば、「罵りあう」関係ではなく、お互いに「褒めあい・感謝しあえる」関係になれるはずです。
そのためにも、「慣れ」という落とし穴にはまらないでください。
それが、夫婦関係をより良縁にしていくための心がまえだと思います。
「運命が丸裸になる」と、
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