気づけない理由の一つが、「自分の感情へのとらわれ」です。
感情的になって一方的に相手を責めたり、被害者意識に陥っていると、自分の感情を正しくコントロールすることができず、結局、独り善がりになって、真実が見えなくなってしまうのです。
ここで言う独り善がりというのは、「自分の欠点は棚に上げて、自分は正しい、ものを知っていると思い込むことで、相手のことを低く見る、貶める考え方や態度」です。
言い換えれば、自分に対する過大評価で、そこでいくら上辺だけ「良い人」を装ったり、愛想をふりまいていても、その奥にもののわからない「我」があれば、外面だけ良くて……となり、家では妻を見下したり、自分が他人にバカにされていてもそれに気づかないまま、「自分は__、自分は__」で、結局相手にされない等、もしそのようなタイプの人が事業をやっていたら、物がわからないために愚かな考え方をも “素晴らしい” と思い込み、大変な事態になってしまうでしょう。
ようは、我の強い人ほど、独り善がりで、自分のことを冷静に、客観的に見ることができない「裸の王様」になっているわけですが、本人はそれにも気づけないわけです。
ゆえに、我の強さに気づいてそれを改めない限り、人との接触において何らかのきっかけで幼稚さや愚かさを見られ、反発や反感を買って失敗することになるのです。
失敗した時にそれに気づけばまだいいですが、判断力や理解力、知識がなければ、そこでもまだ「相手は悪い。自分は悪くない」と開き直ってしまうため、また同じ過ちをくり返すことになってしまうのです。
親、兄弟、親類、パートナー、恋人、旧友、会社の上司や同僚など、親しい関係に人ほど、必ず似たような欠点があるはずで、それを自分と照らし合わせて冷静に見ることができるかどうか、相手を「鏡」として自分の欠点に気づけるかどうか、がとても重要だということです。
__これは、カルマと連鎖を考慮すれば、理にかなっているはずです。
私は、自分の親兄弟、親類の欠点を自分の欠点と考え、合わせ鏡のつもりで、その人たちの欠点を見て自分自身を直す努力をしてきました(正直、これを述べることは、私の心の中にまだ見栄があるのか少し躊躇する気持ちがありました。しかし、私が気づきの言葉を述べるなら、自分の欠点も述べるのが一つの道とも思います)。
最も身近な血縁関係にある人々を合わせ鏡として、自分の欠点を見つめることは、大切なことだと思います。
もちろん、多かれ少なかれ、人間である以上、見栄やプライドは誰にでもあるでしょうが、それが度を越せば「我」となって心の中にどっかりと鎮座して、それが自分の欠点を見るうえでの大きな壁となってしまいます。
見栄とは、「人よりも劣る自分を隠すための背伸び、あるいは誇張」です。
ですから、反面教師も含めて人から学び、判断力や理解力を身につけるなど、心の中で自分の欠点や落ち度に気づくための努力をしていれば、見栄を張る必要はないはずです。
「我、他人を見る。他人もまた、我を見る」
例えば、二人の会社の経営者がいたとします。
一方のAの会社の経営者が、Bの会社の経営状態を調べるために必死で電卓を叩いているのに、それを知るよしもないBの会社の経営者は、ただ見栄を張るためにお金をつぎ込んで借金地獄に陥り、財産袋に穴が空いているのにも気づかないとなれば、まさに「裸の王様」状態で、堅実なAの会社の経営者から見れば、「愚かな見栄」と笑われるでしょう。
そのように、実際、利益が減っているのにも関わらず、見栄や上辺だけ繕って締めるべきところを締めないまま、ますます大風呂敷を広げ、その結果、事業に失敗してしまう人を多く見ますが、そのように、見栄や我が強すぎて身を滅ぼす人が多いことは、とてもむなしく残念な気持ちになります。
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