どのような形であっても、普段から心の中できちんと神仏を守っている人は、「神に守られている」ことにも気づきやすいかもしれません。
ところが、昨今、「神様、◯◯してください!」と願い事をする人はたくさんいても、「神様、いつも守ってくださり、ありがとうございます」と、守られていることに気づいていて、心から感謝を捧げている人は、はたしてどのくらいいるでしょうか?
日本では、八百万(やおよろず)の神と言われるように、大元の神から数多くの神々や仏がいて、この世の人を守護してくれています。
それゆえ、各々の家で祀っている神仏、例えば、神道では天照大御神や大国主神、氏神様、お稲荷様等々、仏教なら阿弥陀様や不動明王様等々さまざまだと思いますが、元を辿ればどの神仏も大元の神の分御霊(わけみたま)であって、皆一つの大家族のようなものです。
ですから、自分の家で代々祀っている神仏に対して願い事をする場合でも、他の家や神社仏閣で祀っている神仏と比べたり、妬むような心で願うべきではなく、どの神仏に対しても決して不遜な態度を取ってはなりません。
なぜなら、私たちはほとんど分御霊をそれぞれ祀っているのですから。もちろん、これはさまざまな種類の宗教界とて同じです。
ですが、もし自分を守護してくださっている神仏の顰蹙をかうような心、例えば、人を妬んだり、人を貶めるような卑しい願い事をするならば、汚れた心、つまり我欲、相手を困らせようとする心で頼み事をすることになり、その人だけではなく、相手にも「相手を守る神」がいるため、わが子(人間)が悪いのであれば、「その願いは聞いてやれない」のです。
この点は特に大事なので、もう少し詳しく説明します。
神々の世界にもそれぞれに専門分野があり、お互いに助け合い、協力し合うことがあります。
神々からすれば、自分が守護している家族や人物の頼み事を聞いてやりたくても、その者が悪く、相手を排除し、自分のことしか考えないようでは、当然、「相手方の家族を守っている神仏もいる」ため、相手を困らせるような「自分勝手な願い事」を聞く(かなえる)わけにはいかないのです。
「人を困らせ、苦しめ、我欲のため、自分の願望達成をしたいがための頼み事」であれば、当然無理なこと。親として、わが子を案じて願い事をかなえたくても、周りの神々がそれを許さないのです。もし、願いを聞くとすればそれは「神」ではなく「低級霊や魔の神」なのです。
まして、自分がトラブルや不幸の種を蒔いておきながら、その責任を棚に上げて、「神様、仏様、私に幸せをください。あの人の幸せが憎らしく、妬ましくてたまりません」
「相手が不幸になるようにしてください」
「ご利益を与えてください。そのご利益で金を得たいのです」
などと、必死になって行をしたり、祈ってみても、神からすれば、
「それはあなたの我欲。あなたの腐った根性を直しなさい」
「自分の罪を考えてみよ」
「自分の愚かさに早く気づくがよい」
となるのです。
しかし、それに気づけない人たちは、
「こんなに祈っているのにどうしてかなわないの?」
「願いを聞き届けてくれないのは、この神仏には力がないからだ」
「かなえてくれないと絶対に困る」
などと、神仏のせいにして、怒る人さえいます。
そのような人は、神に守られていても、それさえ気づかないのです。
また、祝詞の意味もわからず一生懸命に唱えてみても、我欲のみであれば、そこに魔の神や低級霊が入り込みます。
すると、一時は良くても、魔の神は居座り、やがて後々さまざまな不幸を招く現象が起きてくるのです。
反対に、「神を守って、神に守られる」人は、たとえ自分の願いがかなわなくとも、神仏のせいにしたりすることはありません。
「かなわないのは自分の心のあり方に問題があるか、かなわないことが自分のためになるのかもしれない」などと思えるからです。
かなわないのにはかなわない理由があるのです。
その理由の一つが、先ほど説明した、「自分と相手方双方の神々が困るような自分勝手な願い事」
そして、そこで「カルマゆえの逃れられない、逃れてはならない罪がある」ことに気づき、いち早く反省することができるか否かで、カルマを消滅させることもできるのです。
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