青森の神様 木村藤子の公式ブログ 日々の暮らしから得る気づき

透視人生30年以上のキャリアで培ってきた、誰しもが幸福になる生き方、考え方をお伝えします。

不幸は実態ではなく概念

みなさんこんにちは。いかがおすごしでしょうか?

 

さて、今回お話しさせていただくテーマは「不幸」についてです。

 

自分は、「幸せか? 不幸か?」という問いは、私達にとって逃れがたい問なのではないでしょうか? 生きていればついついそんなことを考えてしまいます。そして「自分は不幸だ」と結論づけてしまう人も多くいらっしゃいます。

 

では、「自分は不幸だ」と思ってしまう瞬間とは、どのようなときでしょうか?

 

まずやはり、「お金」の問題というのが大きいかと思います。

 

毎日ヘトヘトになるまで働いているのにちっとも生活がよくならない。挙句に会社が倒産。仕事すら失い、さらに生活が逼迫する。

 

そんなとき、さすがに人は「自分は不幸だ」と思ってしまい“やすい”のかもしれません。

 

生まれた境遇や性別による格差というのも、いまだに少なくないのが現実でしょう。

 

仕事ができるとはとても思えない縁故入社の同期が、自分より出世が早かったり、それこそ女性というだけで一定以上の役職に就けなかったり、そんな理不尽な状況になれば「自分は不幸だ」と思ってしまっても不思議ではありません。

 

持って生まれた「才能」の問題というのもあるかもしれません。

 

3年間、血の滲むような努力を続けたのにベンチ入りすらできなかったサッカー少年が、「自分は不幸だ」と思ってしまう瞬間だってあると思います。

 

また「容姿」、というのもあるでしょう。

 

「好きな人に振り向いてもらえないのは、私の容姿がいけないんだ」とか「もうちょっと鼻が高ければ、モテたのに」とか、自分の容姿が気になって仕方がなくなり、挙句の果てに「自分は不幸だ」と思ってしまうのです。

 

自分ではちょっとやそっとじゃどうすることもできない理不尽な状況になったとき、人は「自分は不幸だ」と思ってしまいます。

 

状況を変えたくても簡単には変えられず、頑張ってもがいても、蟻地獄のように理不尽な状況にズブズブと足を取られて、むしろ状況はさらに悪くなってしまうということも往々にしてあります。現実というのは厳しいものです。

 

ですがそこで、「自分は不幸だ」と思って諦めの気持ちになってしまっては、さらに生きるということが苦しく、つまらなくなるばかりです。

 

苦しい状況のときこそ、客観的に、広い視野に立って考えてみることが何より大切です。「自分は不幸だ」と思いそうになったら、いや待てよ、でも「不幸ってなに?」と正しい知識で考えてみるのです。

 

人は、貧しさ、生まれた境遇、才能、容姿などの持って生まれた物の不足が不幸を作っていると思いがちです。ですが、不足、というのはあくまで相対的な問題なのです。

 

たとえば、自分のことを貧しくて不幸だと思っていたとしても、それは自分より裕福な人と比べた場合に貧しいのであって、世界中を見渡せば自分よりさらに貧しい人だってたくさん存在しています。生まれた境遇にしたって同じことです。

 

才能などは相対的なうえに実態のあやふやなものですし、容姿の美醜などは、その時々、その時代の価値観や人によっても違ってきます。

 

持って生まれた物というのは簡単には変えられませんから、その不足というのは必要以上に気になってしまうのかもしれません。そして、そのことを不幸と結びつけてしまうのでしょう。ですが上には上がいる、または下には下がいる、というように他人と比べての不足を不幸とするならば、結局、誰もがいつでも不幸と思えば不幸と言える、というだけのことになってしまいます。

 

「自分は不幸だ」と思ってしまう人の多くは、知識不足ゆえに、自分で物を考えられないことが多いのです。厳しい言い方になってしまいますが、不幸のぬるま湯に浸かっているとも言えます。

 

確かに現実は理想的な正しさだけで成り立ってはいませんから、すべてが平等というわけにはいきません。

 

社会の問題として、理不尽な状況のできるだけ少ない、人々が平等な世界を作っていかなければならないのですが、それはひとりの人間の力ですぐにどうこうなるという問題ではありません。しかし、だからといって「自分は不幸だ」と諦めの気持ちになってしまっていては、人生を向上させていくことはできないのです。

 

生きていれば、誰にでも当たり前にあるような日々の困難ですら、「不幸」と片づけてしまう人もいます。

 

不幸だから仕方がない、可哀想なのは自分、自分は被害者、といった具合に考え、そもそも困難を乗り越える努力をしないでいいように、自分を甘えさせる理屈を組み立ててしまうのです。

 

考えてみれば人間というのは、困難に直面したとき、その人の前には「逃げるか、努力するか」のふたつの選択肢しかないのです。「人生を向上させていこう」「幸せをつかもう」と決意したのであれば、日々努力を重ね、困難を少しずつでも乗り越えていく他ないのです。

 

人生の道のりというのは修行のようなものです。困難をひとつ乗り越えたからといって、それで永遠に幸せになれるわけではないのです。困難は次から次へとやってきます。そもそもその人が背負っているカルマというのはひとつではなく、それこそ数え切れないほどあるのです。

 

悪いカルマに気づき、努力して直す。そのプロセスに終わりはありません。そのようなプロセスを何回もくり返していくことによって、魂とカルマの汚れは浄化され、それと同時に、価値観や性格もいいほうへ、正しいほうへと変わっていくのです。

 

また、そうなれば当然、人生もよい方向へ、幸せに向かっていくこととなります。ですから、「不幸だ、不幸だ」と嫌がっている困難の多くは、不幸とは逆に、むしろ幸せへの道しるべと考えることもできるのです。

 

そういった困難ひとつひとつを乗り越えていくには、今この瞬間の感情でだけ物事を判断せず、過去、現在、未来のことまで考えて、自分の至らなさを知らなければなりません。自分の至らなさに気づき、直していくことで、初めて困難を乗り越えていくことができるのです。

 

では「過去、現在、未来のことまで考える」とはどういうことなのでしょうか?

 

「過去」を考えるとは………

 

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