我には、「他人が見る自分の我」と「自身が知る自分の我」があります。
見栄っ張りの人は、「他人が見る自分の我」のほうを、とりわけ甘く見ているのではないでしょうか。
他人が「自分のことを良く評価してくれた」と思い込んだり、良く見えると思う部分を「自分だけが過大評価している」がゆえに、自分に甘くなり、欠点に目を向けにくくなる。その結果、何か問題が生じても、自分の考え方の不足である原因に気づけないために調節することができない……。
そのような人たちに共通しているのは、
・絶対にポリシーを変えない
・プライドが高く、人を見下す
・頑固で人の忠告を聞かず、無視する
といった特徴があります。そのプライドは、未熟な「我」にも見えますが、本人は頑なほど自分の欠点、罪を認めようとはしません。
ならば、その「本人だけが信じ込んでいる根拠のないプライド」はどこから来るのか?
その多くは、幼少の頃から、他の人より恵まれていると本人が思うような環境で育ってきた中で培われた「自分は人とは違う」という「優越感」や、その反対もあります。
人よりも恵まれてきたという優越感は、自分だけの心の内に「幸せな心」を生むため、ある意味大切かもしれませんが、そこに、「自分はまだまだ知識が足りない」という考えが加わらなければ、結果的に「人を見下す」心が内に潜んでしまうことになります。
そこに知識不足や人との交流下手が加わると、強い「我」となって相手を押さえつけ、聞く耳持たぬ頑固な人となり、結果的に、家庭や職場のみならず、本人も悲しく寂しい思いをすることになってしまうのです。
人が育つ環境とは、家が裕福かどうかだけではないし、まして親の学歴や地位が高いかどうか、親類縁者に社会的地位の高い人がいるかどうかなしで、良し悪しは決められません。
むしろ、経済的に裕福で甘やかされ、いつでも自分が一番扱いされて育ってきた人ほど、自重し、幅広い知識の中で相手の心を正しく判断できなければ、人の世からはみ出してしまうこともあるわけです。
その我ゆえ、私のもとを訪れても、我ゆえの猛烈な自己主張、自分だけの言い分をぶつけてくるので、私は言葉を失ってしまうことが度々あります。
「この方はいったい何のためにここを訪れたのだろう?」と考え込むことも数多く、その我の強さを直せば、会社の経営も上手くいったり、夫婦間や職場でも孤立せずに過ごせるのに……としみじみ感じ、深いため息が出る思いです。
また、知識不足ゆえ、わが子にまで悲しい思いをさせている「親の我」を痛感することも数多くあります。
親の我は、「愛情ゆえのわが子に対する過大評価」という形で出やすく、わが子から聞く友だちや担任の悪口などの情報だけを鵜呑みにしたり、子どもの欠点を把握できずに自己満足してしまい、その結果、子どもが対人関係で失敗をしていることさえ見抜けず、気づけない。
そのような場合、「うちの子ほどしっかりしている子はいない!」「友だちの◯◯ちゃんは、うちの子よりも劣る」等々、友達と仲良く助け合うわが子であってほしいと願うよりも、「うちの子はー、うちの子はー」の意識では、それだけ親の不足を露わにしているようなものです。
そのような親ほど、友人と話す中においても、「我が子」だけの会話が主で相手の話には耳を傾けようとせず、「聞きたくない」となれば、友人も離れ、語り合う楽しさや喜びを知ることはできないでしょう。つまり、知識を得るチャンスも少ないのです。
「友人とは、辛いことがあった時には心を和ましてくれる大切な存在であり、このような助け合える友人を持つことの重要性」を子どもに教えられず、我一本で子育てとなって、その連鎖の中で子どもも親と同じ道を歩むケースがとても多い……。
このような状況では、「井の中の蛙が大海の荒波に溺れてしまう」のと同じです。
社会という大海に出て、もがくだけで助かる道を見つけられず、何のためにこの世に生まれてきたのかわからなくなります。
たとえどんなに苦しくても、決して溺れてしまうことのないよう、自ら知識を得て、荒波を乗り切っていく道を見い出していただきたい__痛切にそれを願ってやみません。
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