70歳になっても、80歳になっても、「可愛いおばあちゃんになりたい」「可愛いおじいちゃんと呼ばれたい」と思う人は多いのではないでしょうか。
もちろん、「可愛い」といっても、ここでいう可愛さは、容姿や見かけ上のことではなく、素直で悪どさのない心の純真さのことです。
ところが、若い世代にとっての「可愛い」はそれとは少し違うようで、どちらかというと見かけの可愛さを求めているように感じます。
とりわけ、今の20代、30代の女性は、外見の美しさだけを保とうとしすぎる傾向が強いのではないかと感じることが多々あります。
外側のイメージをつくろい、いかに可愛く見せるか、また見られるか、に励むあまり、自分本来のよさ、強さ、いい意味でのしっかりした部分を忘れてしまっているようです。
しかし、本当の可愛さは、内面からにじみ出てくるもの……。
お肌に気をつかうのと同じように、精神面を美しく保つための努力をしている方は、はたしてどれくらいいらっしゃるでしょうか?
可愛い女性を演じる前に、可愛いという言葉の意味をきちんと理解することが大事なのではないかと思います。
確かに、私たちの年齢になると、外見上ある程度お化粧で化けなくてはいけませんが(笑)、若い方々は若さという輝きや美しさを、派手な化粧をすることで逆に失ってしまっているように見えてなりません。
分や場をわきまえないと、かえって汚らしく映るものなのに、多くの人がそれを「個性」だと勘違いしているのではないでしょうか。
大事なのは精神面の美しさであって、若い頃はむしろ薄化粧の方がその人の自然な魅力が出て、好感を持たれるものです。
そして、本当にすばらしい女性とは、心の純真さと同時に、芯の強い、判断力や知識をあわせ持った女性のことをいうのではないかと思います。
いくら歳を重ねていても、純真な心と正しい判断力を持ち、はたから見ていて心地よいお年寄りと出会うと、「可愛い」と感じることがあるのではないでしょうか?
人生の「まさか」や困難な状況が訪れたとしても、心がぶれず、きれいなままで芯が強い人。その強さも適度に保ち、我を張らず、素直に引くこともできる「さすが、歳を重ねて生きてきただけある!」というような方に出会うこともあるかと思います。
そのような時は、何かしら心が清められたように清々しいものを感じることがあります。
要は、ただ無垢で従順なだけでなく、自分の弱さに打ち克つ強さもあわせ持っている。その強さの出し具合、つまり心の調節が難しくて、誰もが憧れながらもなかなか「可愛いお年寄り」になれないでいるのではないでしょうか?
個人的なことでちょっとお恥ずかしい気がしますが、少し私の経験について述べます。
数年前のある日、気分転換をかねて主人と二人でドライブをしていた時のことです。
私は日頃の疲れが溜まっていたので、助手席でウトウトとうたた寝をしていました。
すると主人が運転しながら、突然、
「お前も可愛いところがあるよな」とポツリといいました。
『エッ? 可愛い??』
眠っていた私の耳に遠くでその声が聞こえたかと思うと、だんだん現実感が湧いてきて、目が覚めました。
「お父さん、今、なんていった?」
「可愛いところがある、といったんだよ」
「エーッ!! 今さらこんないい歳をした私をつかまえてそんなこといわないでよ、キモチワルイ」と私。
「いやいや、そういう意味じゃないんだよ。ちゃんと引く時は引くし、ある時は自分のことを寛大に見てくれるし……」と主人。
おそらく、「これまでありがとう」という感謝の意味もあったと思います。
しかしながら、それまで「好きだ」とか「愛している」などと一度も言葉に出したことがない主人が、突然「可愛い」という言葉を発したことに、私は嬉しさよりも、「エッ、もしかして死ぬのが近いの?」とまじめに私の心の中で一瞬よぎった記憶があります。
ふり返ってみると、夫婦ともに頑固で生真面目。夫婦喧嘩をした時、もしどこまでもお互いに引くこともなく我を張って、相手を許すことができなかったら喧嘩が絶えることもなく、歳を重ねても慈しみ合う気持ちはどこかへ飛び立っていたと思います。
この仕事をしつつ、夫婦関係においても自分をも戒め、学び、おかげさまで今日があると思っています。
それにしても、「可愛い女性」とはどういう女性なのか?
ある程度年齢を重ねた男性が女性に求める可愛さについて、どのように捉えたらよいのでしょうか。
それは、決して見かけ上の若さや派手さではなく、言葉にしきれない相手の感情や気持ちまでもちゃんと理解できる、察せられる思いやりを持っていること。
そして、夫婦のどちらかが何か間違った考えを持っていたら、会話の中で相手にわかる言葉で指摘し、よく話し合うことができる知的で優しい心の持ち主ではないかと思います。
時には意見が合わず喧嘩をしたり、また慈しみの中で助け合ったり、押したり引いたりするそのくり返し、積み重ねの人生の中で、共に「慈しみが湧くような共同生活ができる」がゆえに、歳を重ねても可愛く感じられるのではないでしょうか。
主人はこうもいいました。
「お前だけが歳を取ったわけじゃない。私だって歳を取って、それなりに衰えてきた。無我夢中の日々、共に歩いてきて、共に白髪になり、シワが増えて、歳を取ってきたんだから……。」と。
主人がいいたかったのは、内面的な可愛さ。ただ大人しく夫につき従っている女性や夫に反発するだけの女性ではなくて、知識、常識をわきまえて、夫婦間の手綱さばきが期待できる女性のことだったようです。
とはいえ、本当の話、もちろん私とて完璧なわけではなく、時にはケンカも突然に(?)勃発することもあるのです。
この話を例にあげたのは、決して自慢話ではなくて、夫婦間の手綱さばきが上手にできない “自分だけ” の方も多く、熟年になって共に心の中で相手に近寄れずに苦しんでいる方々が多いからです。
そもそも、夫婦とは、共有するカルマを生まれ持った魂の修行仲間ゆえ、結婚後にもさまざまな問題が生じるのは当然といえば当然です。
その困難な問題や状況を二人で乗り越えることが、共に魂を磨き合うことにつながり、また新たな知識を子孫へと伝達するためにも必要な「共同生活の現場」となるのです。
すなわち、結婚という「共同生活の現場」そのものの中で、結婚前の恋愛とは違う「魂を磨き合う現場」でもあるわけです。
恋人とは別の「ケジメ」、そして相手を尊重し、許せる「愛」が大切になってきます。
その共同生活を両者が育んでいくためには、物心両面にわたる共なる心の協力がなくてはなりません。
お互いに違う性格を持って生まれて来ているのですから、そこをしっかり念頭に置いて “魂のズレ” 、つまり、さまざまな感情のズレやそれぞれに育った文化のズレを、深く理解できる心を持つことができれば、女性のみならず男性も、夫婦としてたまに喧嘩はするけれど、やっぱりお互いのことを「大切な相手である」と再認識する気持ちが強くなると思います。
結婚はゴールではなくスタート。それは、カルマを共有するがゆえの共同生活、この世における新しい人生の魂磨きができるスタートともいえるかもしれません。
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