私が小学校の頃は、夏になると暑いので、当時は家の窓が全開にされました。
すると、近くの広場から、拡声器を使った「汝の敵を愛せよ」という声が聞こえてくることがよくありました。
おそらくキリスト教会の街宣車だったのでしょうが、私はなぜかその言葉だけが妙に心に残って、いつまでも記憶の底にありました。
「汝の敵を愛せ」
この言葉は、聖書の中に出てくる言葉ですが、今になって思うと、宗教家であれば、似たような意味あいの言葉をよく使うかもしれません。
かれこれ、あれから五十年。
この仕事をするようになってから、十年、十五年と年を重ねる中で、あまたのカルマ、運命を背負った人たちのさまざまな相談を受けているうちに、この言葉の意味がよくよくわかるようになりました。
たとえ敵であっても、慈愛の気持ちを持って相手を許すことの大切さ。
それは、自分と同じように、対立している相手もまたカルマがある、すなわち、罪を背負っているがゆえに気づけないでいる。そこを理解し、この世における同じ修行仲間として「許すこと」の大切さを説いているのだと。
但し、罪がある、といっても、「原罪」とは違います。悪いカルマという意味で、そのカルマ=欠点は自分の気づきと努力によって取り除くことはできるのです。
相手に非がある、落ち度があると、腹を立てたり、いがみあって仲違いしたり、憎悪を持ち続けるのではなく、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるように、その罪は自分にもある、同じ罪深き人間としてその人を理解し、受けとめる。
あなたにも欠点があり、私にも欠点がある、欠点の違いだけで、欠点のない人間なんていない、と。
そうすれば、相手を許すこともできるし、知識・常識を得て自らの魂が成長するにしたがって、かつてはいがみ合ったり、ひどい目にあわされた相手をも愛することができるようになるのではないかと思います。
私も人間なので、「汝の敵を愛せ」といっても、なかなか難しい時もあります。
しかし、ものごとを理解し、知識を得れば、時間の経過とともに相手の状況やその時の相手の気持ちの度合いなどを考慮し、許せる心まで持っていけた体験もあります。
それは神との交流がなかったら、とてもできることではなかったと思うと、神のいわれる「気づき」や「知識」の大切さ、偉大さを、いまさらながら感謝の念とともに痛感するとともに、「許せた自分」を認めてあげたくなります。
私はときに、あえて相談者の方に厳しい言葉をいって理解を深めさせることがあります。心底、私の言葉の表現を理解しようとする人と、単に「叱られた」と思う人とでは、「気づいて直す」ことに対し、当然ながら大きな差が出てきます。
時の違いの 憎しみなり
憎んで、憎まれて__そこにあるのは、「過去」と「現在」という時間の違いでしかなく、憎しみというカルマの貸し借りは、時を経て清算することができると思います。
そのときの出会いや出来事が、自分にとって不愉快で納得のいかないことであったとしても、また、自分はルンルンで幸せ気分でも、もしかしたら今、他人にもいえない言葉、出せない苦しみがあるかも知れない、時の違いが明暗を分けているだけで、「時の違いの 憎しみなり」のこともあるのです。
そうであるならば、それは「お互いさま」ということになるのです。
そのように、何らかの清算すべきカルマがあるがゆえにいろんな人たちと出会っているとしたら、一方的に相手を責めたり批難する前に、よくよく考えなくてはならない自己責任があります。
まさにそれこそが、
「自分がこの世に生まれてきた本当の目的は何なのか?」
「人間にとって、己の心を戒め、磨いて、成長させることがいかに大切であるか?」
ということです。
「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの言葉も、結局のところは、そうしたカルマ(罪)ゆえの心の修行の大切さを説いているのだと思います。
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