人は人と人が関わることによって、この世に生を受けます。
全く別の環境に生まれ育ったふたりが出会い、恋をして、新たな家庭を作ります。そこから生まれた新たな命もいずれは巣立ち、人生の伴侶を見つけ、自分の家庭を築いていきます。親から子へ、子から孫へ。そしてまた、孫からその子へと、生命のバトンタッチは当たり前のごとく続いていきます。
このように私たち人間は、人類が誕生してからずっと出会いと誕生を繰り返してきました。人類の歴史とは、まさに家族の歴史でもあるといえるのではないでしょうか。
私たちの住む社会は、人と人が織りなす共同体です。そこにはさまざまな集団が存在しますが、なかでも最小の単位でありもっとも強いつながりを見せるのが「家族」です。
みなさんも自分のことを考えてみてください。この社会で生活していれば人はいろいろなところに関わりができるものです。でも、最終的に帰属意識を強く抱くのは一体どこでしょうか? それは国でも会社でもなく、自分の生命の根源である”家族”なのではないでしょうか。
しかし、家族も最初から強いつながりを持っているわけではありません。違う家庭で育った血の繋がりがない男女が基本になりますので、そこには習慣の差や葛藤があって当然です。
それをいかに強固なつながりとし、結束させていくのかがコミュニケーションです。つまり、お互いがお互いを理解しようとする思いやりの積み重ねが、結果として現れてくるのではないでしょうか。
また、個が集まった最小単位の集団が家族であり、その家族がつどって構成されるのが地域のコミュニティーであったり、学校社会であったりします。大人になるにつれてその社会は幅を広げていくものですが、それはいわば認知する世界が広がっていっていることの現れです。
もちろん、世界が広がれば広がるほど自分の属する社会、特に家族とは別系統の考えを持つ人々や、異なる生活習慣の人々と出会うことになります。
わかりやすいところでいえば、日本と海外では言葉も習慣も違いますし、もっと狭く見てみたとしても日本国内でさえ方言が存在するのです。
このように多様に広がる社会にあっても、そこいる人々はすべてひとりひとりが違う価値観を持つ別人格です。初めから10年来の友人のように接することができる人間もいれば、気の合わない人間がいることもあるでしょう。それぞれの関係では差が出たり、軋轢が生まれるのは当たり前のことなのです。
私たち人間は、透視をするように相手の心を見て気持ちを知ることはできません。しかし、時間をかけてコミュニケーションをとり、相手を思いやる気持ちを持ってさえいれば、私たちは相手が何を考えているのか、どう感じているのかを想像することができるようになります。
他人と関わりを持っていくうえでは、プラスの感情ばかり生まれるわけではありません。そこには怒りや妬みなどのネガティブな感情も含めて、さまざまな思いが入り乱れています。しかし、それを感情のおもむくままに野放しにしていては、私たちはこの社会を維持していくことはできません。
現代は人と人との関係性が稀薄になり個人主義になりすぎていると指摘されますが、みなさんはどのようにお考えでしょうか?
「人の気持ちがわからない」ですとか、「自分勝手な人が増えた」という声をよく耳にしますが、残念ながらこれは事実なのではないかと私は考えています。
現代社会を潤す便利な電化製品の発展に伴い、今を生きる子どもや大人がさまざまな面で影響を受け、心の内側まで無機質に変化させていくことは致し方のないことかもしれません。しかし、そんな時代だからこそ情緒を大切にし、本来、人が持っている温かい心を失うことのないよう、未来の子どもたちへと伝えていく責任があるのだと思います。
では、なぜそのような一元的なものの見方が蔓延してしまっているでしょうか?
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